御祭神
- 倉稲魂命<ウガノミタマノミコト>
- 天鈿女命<アメノウズメノミコト>
- 瓊々杵尊<ニニギノミコト>
御神徳
- 商売繁盛
- 技芸上達
- 家内安全
- 必勝祈願の成就
- 至難超克
- 繁栄無窮
- 諸事円満
- 富貴繁栄
※烏森神社は芸能の神と崇められる天鈿女命をお祀りする数少ない神社の一つでもあります。

地名の由来
烏森の地は、古くこのあたりが武蔵野国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は松林でした。その為、当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていました。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになりました。それが烏森という名の起こりです。

神社の創始
平安時代の天慶三年(九四〇年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えました。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神烏の群がる所が霊地だと告げました。そこで桜田村の森まで来たところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営しました。それが、烏森稲荷の起こりです。

神社の隆昌
明暦の大火(世界三大大火にかぞえられる、俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となりました。ところが、烏森稲荷だけは不思議にも類焼を免れたので、これは神威の致すところと考えられ、以後、烏森稲荷に対する信仰は日に日に篤くなっていきました。
また、椙森神社(日本橋)、柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されています。明治六年には、これまでの烏森稲荷の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として、多くの人々の信仰を集めています。現在の御社殿は昭和四十六年に造営されました。
くろやきになるべき烏森なれど ならぬは神のいとくなりけり

例大祭
5月4・5・6日
江戸時代までは稲荷仰にしたがって、2月初午の日が例祭日とされていました。
『祠曹雑識』によれば、百余りの稲荷番付の中で鳥森稲荷は東の関脇に位置付けられ、稲荷祭の賑わいとしては江戸で一、二を争うものでした。明治以降は例祭日を5月4・5・6日に改め、今では夏祭りのはしり烏森祭として全国的に有名です。
大神輿について
名匠と謳われた神田田代町の神輿師「だし鉄」こと山本正太郎の最高作と言われる、八つ棟型の大神輿です。通称千貫神輿:台輪四尺二寸、昭和五年十一月作、昭和57年解体修理。
蕨手に鳥を置き、四面ある屋根の各面に切妻が載っている八つ棟型の神輿は大層珍しく、また、これほど大きな神輿も類をみません。
この本社大神輿は、戦前までは強力によって担がれていましたが、昭和28年に牛車に引かれて氏子町を巡幸し、稚児行列や新橋芸妓連も参加しました。以後、昭和37年まで毎年行われていましたが、交通事情によりやむなく中止となりました。
しかし氏子の青年達を中心に結成された皐月會と宮頭め組の熱意と協力によって、昭和49年に初めて氏子に担がれての巡幸が再開されました。
昭和50年には天皇陛下御在位五十年を奉祝しての大神輿巡幸が行われ、以後二年に一度、例大祭の五月五日に新橋駅前を宮出とし、氏子町会を渡御しています。
